92年の生涯:5月8日
丑三つ時(真夜中の午前2時ごろ)は、陰の妖気がもっとも強くなる時刻だそうです。
5月8日午前2時のこと-。
枕元のモバイルが鳴り、出てみると実家の兄から。
「さっきおやじが入っている施設から容態が急変したと連絡があった。行ってくる」
前日の7日、私と妻が叔父夫婦と共に父が入所している実家近くの施設を訪れて、〝激励〟の言葉をかけてきたばかり。
あれから24時間も経っていません。
午前3時前、再び兄から-。
「駆けつけたんだが、おやじは心停止の状態で間に合わなかった」
奇跡は起こりませんでした。
悲報から訃報へとなりました。
父は私たちと目を合わせ、短いながらも「おう」と応じてくれたので、自宅へ戻ってきたのですが、昨日の今日とは…。
父はありったけの力を振り絞って、私たちに最期の挨拶をしてくれたのだ。
闘病、本当にお疲れさまでした!
昭和6年8月15日生まれ、92歳の生涯。
死亡日時:5月8日午前2時14分、直接の死因:すい臓がん末期でした。
その後も兄から何度か連絡が入り、菩提寺と相談・調整の結果、「9日入棺、10日葬儀、11日火葬」の運びになったとのこと。
一連の日程が差し迫っているので、兄と手分けして親戚縁者に電話で慌ただしく案内。
当方は9日にどうしても外せない仕事が入っていて、それを済ませた後、鉄路で地元に戻り、10日の葬儀からの参列に。
そのため、妻には私より1日先行してもらうようお願いをし、父への手向けの品を持って行ってもらうことにしました。
手向けの品は、スケッチブックと12色のカラーペンです。
父は絵を描くのが上手く、現役時代には油彩画や水彩画を手掛けたり、親戚縁者の似顔絵を描いたりしていました。
介護老人保健施設へ入所する際、生活に少しでも色どりを添え、元気に過ごしてもらいたいと思って、私が買い求めていました。
しかし、先日施設で面会した際に手渡そうと思っていたのですが、もやは父は筆を持てる状況ではなかったため、そのまま持ち帰ってきていたのでした。
その品を父の入棺時に一緒に納めてもらいたいと、妻に託したのでした。
「ありがとうございました」:5月9日
5月9日夜。
仕事を終え、新幹線に乗り込み、父の亡骸が安置されている葬儀会場へ。
最寄り駅で降り、そこからはタクシーに乗って移動。
会場は、父の生まれ育った家からさほど遠くなく、生前「この斎場で」と希望していたところです。
火葬の儀式まで、亡骸を安置でき、大人数でも家族が寄り添う形で泊まれる設備を備えています。
大きな斎場で、他にも何家族かお世話になっている様子。
22時過ぎ。
家族が集まっている部屋を訪ねると、叔父夫婦といとこ、妻が出迎えてくれました。
父の棺は10畳はあろうかという畳部屋に安置されていました。
拝顔し、焼香。
父は安らかな顔をして〝眠って〟いました。
壁に目をやると、葬儀日程、地元紙のおくやみ欄、それに供花をいただいた方々の氏名が掲示されています。
とても広い空間で、畳部屋に隣接する格好で、キッチン、リビング、バスルームのほか和室、洋室まであり、広々としたマンションのような造り。
間もなくすると、和室から兄が出てきました。
葬儀参列者へのお礼の文言をすでに考えてくれていて、印刷済みのお礼状を手渡してくれました。
「お疲れ様でした、これまで本当にありがとう!」
…父は一番の評論家でありファンであり、私が手掛けた番組を全て録画してはよくよく褒めてくれ、時にはアドバイスもくれて…父のその言葉こそが私の原動力でもありました。
同様に、弟の活躍している姿を診ればエールを送り…愛情に溢れたその言葉は私たちの笑顔を一層輝かせ、勇気づけれもくれたものです。
さらには病と闘う母のことも献身的に支えて寄り添って…母にとっても父という存在が何より心強く、明日への希望ともなっていたはずです。
…別れは惜しまれますが、これからは向かう先で待つ母と第二の人生を…心からそう願って、逝く背をそっと見送ります。
兄「これでいいか?」
私「まったくこの通りで」
家族思いだった父には、本当に感謝の念しかありません。
無言の帰宅:5月11日
5月11日午前、2階の安置部屋に親族一同が集い、「納棺」に臨みました。
父はすでに湯かんを済ませ、化粧を施され、装束も身につけて「入棺」しており、そこにみんなで副葬物を添えます。
棺のふたを開けると、母の遺影と、私が先に妻に手向けの品として託したスケッチブックとカラーペンがすでに入っていました。
母の遺影を入れたのは、父が向かう先でまた一緒に添えるように、との思いから。
「おふくろにしてみれば、二度火葬されるのはたいへんだが、許してもらおう」
兄が気を遣って場を和ませます。
私は父が好きだったアルコールの類いを枕元に置きました。
親戚一同で前日の葬儀でいただいた供花を手に父の全身を覆いつくすように散りばめて。
最後はふたを乗せ、「くぎ打ち」のかわりに、みんなで交互に小ぶりな石でふたの四隅をトントンと叩いて、終了です。
一昨年秋に同様にして母を送り出した記憶がよみがえり、重なります。
自分を産み、育ててくれた二人との別離のとき-。
何とも表現のしようがない感情がこみ上げてきます。
斎場が用意し、家族が乗り込んだマイクロバスには父の棺を納めることができる縦長のトランクがついていて、私たちと一緒に火葬場へ。
親戚関係者は各々の自分たちの車で移動。
火葬の間、前日の葬儀のことを思い出していました。
…葬儀は斎場の1階で執り行われました。
父が現役を退いてからずいぶんと時が経ち、高齢ということで交友者もほとんどいなかったことから、事前にお知らせできたのは、親戚縁者を中心に20数人足らず。
しかし、地元紙のおくやみ欄を見たり、人づてに聞いたりして、こちらからご案内できていなかった旧知の方、5、6人に駆けつけていただきました。
中には母と共通の友人の方もおられ、もうただただ頭を下げ、お礼の言葉を申し述べたのでした…
火葬にかかる時間は、亡骸の体格や年齢等によって違ってくるそうです。
父の場合、棺が炉に入ってから1時間ほどでお骨上げとなりました。
遠目で収骨室内の骨上げ台の方に目をやると…
父は「真っ白」になっていました。
まだ冷めやらない骨上げ台へ近づいていくと、父の骨は体の部位が分かるほどきれいな状態。
火葬場の職員さんが、のど仏などゆえんなどさまざま〝説明〟してくれましたが、まったく耳に入ってきません。
話が終わると、長い竹箸を使っての二人一組による収骨を促され、指示のまま骨壺へ。
骨壺に収まった父はその晩、私たちと一緒に実家へと戻りました。
後飾り祭壇に遺影、遺骨、供物、供花を並べます。
父の遺影の隣に母の小さな遺影を寄り添うように置いて。
介護老人保健施設に不本意ながら入所してから、ほぼ1カ月…。
(おやじ、恋しがっていた家に戻ってきたよ)
無言の帰宅です。