宝登山神社:日本武尊みそぎの泉
お義母さんの米寿を家族みんなでお祝いしようと、泊まりがけで物見遊山に。
車2台を駆って、昨日は温泉を堪能。
本日は神社詣でで、埼玉・秩父長瀞の宝登山神社を訪ねようということになりました。
長瀞には昨春、お義母さんと訪れて「渓谷一周船」を楽しんだのですが、宝登山神社には参拝せずじまいでした。
約1900年前、第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国地方平定の際、神霊を拝そうと、岩に囲まれた泉でみそぎをし、山頂へと向かいました。
しかし、山火事に遭い、進退が窮まってしまいます。
その時、山犬たちが現れて火を消し止め、尊一行を頂上まで案内してくれたそうです。
尊は、山の神が山犬を遣わし、自分たちを救ってくださったとのだと悟り、山頂に神籬(神霊の宿るところ)設え、尊の祖先にあたる第一代神武天皇、山の神大山祇神、火の神火産霊神の三神を祀り、山の名を「火を止める山=火止山」と定めたことが始り。
その後、「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起きたことから「宝登山」と改められました。
(宝登山神社の公式HP・パンフ等より)
火災・盗難・諸難よけの守護神として、その御神徳に年間100万余の参拝者が訪れるほど。
しっかりと、お義母さんはじめ家族の益々の健勝を祈念しました。
立派な本殿の正面左手から格子沿いにぐるりと巡っていたら、格子の上部に「日本武尊 みそぎの泉」と書かれた印が掲げられていました。
格子の内側をのぞき込むと、土の地べたではなく、縦2㍍弱、横1㍍ほどの長方形の切石造りのところがあり、見ると、その中には水が…。
こんこんと湧き上がっているようではなく、どちらかというと静かに溜まっているといった感じ。
九州のお義姉さんは、御朱印集めをしているとのことで、もちろん御朱印帳を持参。
段取りよく社務所に先に預けていた御朱印帳を参拝後に受け取り、みんなの所に戻ってきたのですが、妻の姿が見当たりません。
(どこへ行ったやら…)
辺りを見渡したら、社務所前に。
近づいて行って「お守りでも買ったの?」と聞くと、何と、お義姉さんに感化されて、御朱印帳を初購入し、さっそく「記帳をお願いしていた」と言うではありませんか。
「これから御朱印の旅が始まるね。あちこちに参拝に出掛けないと」
お義姉さんにそう声をかけられた妻の顔を見ると、まんざらでもない様子。
(えっ、本当に〝御朱印旅〟が始まるの!?)
秩父神社:お元気三猿
お義姉さんの言葉通り、この後、一行は秩父神社へ向かうことに。
車で30~40分ほどの距離。
到着して驚いたのは、先ほどの宝登山神社と違い、秩父神社は秩父駅のすぐ間近、街中にあることでした。
平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神・八意思兼命をお祀りしたことに始まり、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至る。
(秩父神社公式HP等より)
八意思兼命(オモイカネ)は知恵・文学・学業の神とされ、天岩戸神話などに登場します。
スサノオの乱暴に怒ったアマテラスが、天岩戸に隠れてしまうと、世界は暗闇に包まれ、事態を打開しようと神々が集まる中、オモイカネを中心に知恵を絞ります。
岩戸の前でアメノウズメが舞い、神々が騒ぎ、どうしたものかとアマテラスが少し岩戸の扉を少し開けたところを、アメノタヂカラオが扉を開け放って、アマテラスが岩戸から出てくるという策を講じたとされます。
ご社殿は戦国時代末期に焼失し、徳川家康公が支援して再建されたといい、そうした所縁からでしょうか、どこか家康公を祭る日光東照宮をおもわせるところがあります。
先ずは造り。
極彩色で彩られ、本殿・幣殿・拝殿の三棟からなる権現造り。
日光東照宮は伝説の名工・左甚五郎作といわれる「見ざる、言わざる、聞かざる」が有名ですが、秩父神社の社殿にも三猿が彫られていています。ただし、秩父神社の三猿は「よく見て、よく聞き、よく話す」の〝お元気三猿〟と呼ばれて親しまれています。作者不詳。
そして、拝殿正面左側には子虎とたわむれる〝子宝 子育ての虎〝の彫刻があります。こちらは左甚五郎が家康公の威厳とご祭神を守護する神使として彫ったものと伝えられ、狩野派の流れの証として母虎をあえて豹柄で描いているのが目を引きます。
お義姉さんと妻はというと、もちろん御朱印を手にホクホク顔。
聖神社:金運のパワースポット
みんなで遅めの昼食におそばをすすった後は、和銅遺跡へ。
西暦708年、武蔵国秩父郡から銅が献上され、これを喜んだ朝廷は年号を「和銅」と改元し、日本最初の貨幣「和同開珎」を発行しました。その「和銅」の採掘跡が、今も秩父市黒谷の和銅山に残されていて、その一帯が「和銅遺跡」と呼ばれ、和銅とは精錬を要しない自然銅のこと。
(秩父市和銅保勝会HP等より)
和銅山にある高さ100㍍を超す当時の露天掘りの跡地まで行ってみることに。
国道140号線から脇道に入ると、駐車スペースがあったので、そこに車を停めて、歩いて100㍍ほど進むと、遺跡入り口の案内板がありました。
コンクリートの道から脇下の畑の中を通って幅1㍍ほどの細く、薄暗い沢道を20㍍ほど歩いて行くと、大きな和同開珎のモニュメントに遭遇。沢道反対側の山の斜面に沢から上に向かって削られた後を発見、それが露天掘りの跡といいます。
記念写真を撮って、車まで戻って初めて気付いたのですが、駐車したところはどうやら神社の駐車場だったようです。
社名は「聖神社」。
和銅の発見、献上を喜んだ朝廷が勅使を遣わして、祀り祝典を挙げました。聖神社の創建は和銅元年で、銅洗堀を隔てて、蓑山(箕山、美野山、美の山)を背にした清浄の地を選んで、オホヒルメムチノミコト(天照大神)、クニトコタチノミコト(国常立尊)、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)が併せて祀られました。
(聖神社公式HP等より)
現在は、採掘された和銅石大小2個と、元明天皇下賜の銅製の蜈蚣(百足)雌雄一対が御神宝として伝えられています。
お義母さんは朝から移動続きで、お疲れの様子だったので、私と共に車で待機。
ほかの家族と一緒に参拝、戻ってきた妻によると、なんでも地元の人々から「銭神様」と呼ばれ、金運の大パワースポットとして人気があり、宝くじに当選した人たちの御礼報告が掲げられていたとか。
外れくじばかりを引いている私としては、ぜひ御利益をわけていただきたかったのですが…。
(残念至極!!また当分、外れくじに泣かせられるのか)
本日、3つ目の神社を参拝を済ませ、一行は見の山の宿泊先に向かうことに。
その前に、こちらでも〝御朱印姉妹〟がしっかりと印をいただいたのは言うまでもありません。